テレビ、ゲーム、スマホ、そしてAI ― いつの時代も“使いすぎは悪”と言われてきた

読書・ラジオ・テレビ・ゲーム・スマホ・AIのタイムライン(「使いすぎは悪」の歴史)

スマホだけが悪者なのか?

スマホを使いすぎるのは悪だ」という主張をよく耳にする。
ジョブズは子どもにスマホを与えなかったとか、デジタルデトックスで頭がスッキリするとか。
でも、本当にそれはスマホだけの問題なのだろうか。
気になってざっと調べてみると、どうやら歴史は繰り返しているらしい。
どの時代も新しいメディアや娯楽は「使いすぎ=悪」とされてきたのだ。


昭和に叩かれたものたち

ここは耳馴染みのある話が多い。
親世代や自分の子ども時代に聞かされた記憶がある人も多いだろう。

テレビ(1950〜60年代)

子どもがテレビに夢中になり、勉強しなくなると批判された。
「テレビっ子」という言葉は、当時はむしろネガティブなレッテルだった。

ゲーム(1980年代)

ファミコンにのめり込み、外で遊ばなくなる。これも当時の社会問題だ。
ファミコン症候群」という造語まで生まれ、教育や健康への悪影響が盛んに叫ばれた。

マンガ(戦後〜昭和)

マンガもPTAや教師から「教育に悪い」と叩かれた。
手塚治虫の作品ですら、文化的価値よりも「子どもを堕落させるもの」と見なされていた時期があった。


さらにさかのぼると…

さらに昔を見てみると、意外なものまで「悪」とされていた。

ラジオ(大正〜昭和初期)

「夜更かしして聴くから健康に悪い」
「家庭の会話がなくなる」
そんな批判を受けながら、ラジオは家庭に浸透していった。

小説(明治時代)

恋愛小説や人情本は「若者を堕落させる」と言われた。
夏目漱石ですら新聞小説をめぐって「軽薄だ」と批判を浴びている。

読書(江戸時代)

庶民が浮世草子黄表紙を読みふけると「風紀が乱れる」と心配された。

今となっては、ラジオは「聴き続けると脳が活性化する」と言われたり、読書家はむしろ褒められる対象になっている。
笑ってしまうくらいの逆転である。


人はいつの時代も同じ反応をしてきた

新しいものが出ると「依存性がある」と言われる。
そして決まって子どもや若者に悪影響があると心配される。
ところが時間が経てば文化に溶け込み、かつての批判はすっかり影を潜める。
この繰り返しこそが、人間の“新しいもの“への反応パターン”なのだろう。


結局どういうことか

結局のところ、若者たちが熱中しているものに対して、楽しみ方がわからない大人たちが「有害だ」と口出ししているだけではないか。

スマホが「悪」なのではない。
人間は新しいメディアに出会うたび、同じように「使いすぎは有害だ」と反応してきただけだ。

家に帰ってすぐテレビをつけていた昭和の大人と、ベッドでスマホを眺め続ける現代人は、結局同じ構造にいる。

そしてこの構図はAIにもそのまま当てはまる。
「AIに頼りすぎると考えなくなる」「仕事が奪われる」と批判されるが、それはテレビやゲームが登場したときと同じ反応である。
AIが悪いのではなく、どう使うかがすべてを決める。
数十年後には「当たり前の道具」になり、次の世代の新しいツールが悪者にされているだろう。


あとがき

若者たちは大人の声を聞きすぎることはない。
批判されているうちから使いこなそう。
流行らず消えるかもしれない。
でも、怖がって何もしないよりは、どう面白く使うか考えながら使っている方が豊かな人生になるはずだ。

大人については「昔はよかった」「世の中が変わった」とよく言ってしまいがちだけど、実際に変わったのは新しいものを楽しめなくなった私たち大人の方ではないか。
だからこそ批判に回るのではなく、自分なりに使い倒して楽しんでいきたい。